清凉山寶樹寺とは

清凉山に号する浄土宗西山禅林寺派の寺である。
むかし、この地の北辺に一ノ橋と呼ばれる橋が架かっていたことから橋詰堂とも呼ばれていたと伝えられている。
宝永3年(1706)僧聖空によって中興され、寺名を寶樹寺と改められ、現在に至っている。
本堂には、本尊の阿弥陀如来立像及び薬師如来座像を安置している。この薬師如来座像は、俗に「子そだて常盤薬師」と呼ばれ、常盤御前が、今若、乙若、牛若の3児の生長を祈願した像と伝えられている。

常盤御前雪除けの松

また、境内には、「常盤御前雪除けの松」と呼ばれる残株があり、常盤御前が大和(奈良県)へ逃れる際、この地の老松の下で、しばし雪の降るのを避けたと伝えられている。

清凉山寶樹寺の歴史

延長三年(925年)藤原忠平の創建と伝えられる法性寺(天台宗)の塔頭 勝円寺(橋詰堂ともいわれた)といわれ、宝永三年(1706年)、聖誉円阿上人(浄土宗)によって中興され、清凉山寶樹寺となり現在に至ります。
寶樹寺(ほうじゅじ)には、「子どもそだて常盤薬師」と彫られた石碑が建っています。

寺の秘仏である薬師如来像と子どもにまつわる物語の由来は、源平が覇権を争っていた平安時代末期にまでさかのぼることができます。
平治の乱(1159年)で源義朝を破った平清盛は、源氏の報復を恐れて、義朝の子を捜し出して殺すよう家来に命じました。義朝に愛されていた女性常盤は、牛若ら3人の子を連れて大和(奈良県)に逃れていました。常盤の母は京で平氏に捕らえられ、常盤や三人の子の所在を問い詰められていたのですが、そのことを知った常盤は「自首して母を助けるべきか、逃げのびてわが子を救うべきか」と悩んだ末に自首を決意し、子を連れて大和から京に戻りました。

雪が降り続く翌年2月、常盤たちは現在の本町通にかかる「一ノ橋」にさしかかります。雪を避けるため、母子4人が道沿いに立つ松の陰に身をひそめました。しばらく休んで歩き出そうとすると、守り本尊にしていた薬師如来像が突然、石のように硬くなり、眩い光を放ってこうお告げになりました。「私をこの地にとどめなさい。三人の子どものことは心配しなくていい」平氏のもとに進み出た常盤と子の命は救われ、後に牛若が成人して義経となり、平家を滅亡へと追い込んだのも、薬師如来の加護だと寺の縁起は記します。

寶樹寺住職 尾川宣之

「雪よけの松」は応仁の乱で焼けたとされますが、明治末期、京阪電鉄の建設工事に伴い境内を掘削した時、地中から松の根が見つかり、寶樹寺の寺宝の1つとなっています。(庭には「常盤御前雪除松跡」の石碑が立っております)

行事案内

1月1日

修正会(しゅしょうえ)

1月1日

正月に修する法要
正月の初め、お寺では社会の平和と人々の幸福を祈って、法会(ほうえ)を修します。これを修正会といいます。

1月25日

御忌会(法然上人の命日)

1月25日

宗祖・法然上人の亡くなった忌日、お徳をたたえる法要

3月21日

春彼岸会・永代供養

3月21日

彼岸会(ひがんえ)
極楽へのあこがれを起こす日
永代供養
寺院や霊園が遺骨を預かり永代にわたって供養すること

8月17日

初盆供養施餓鬼会

8月17日

「おせがき」は、「施餓鬼会(せがきえ)」「施食会(せじきえ)」などといわれ、各宗派を通じて行われる仏教行事の一つです。

9月23日

秋彼岸会・永代供養

9月23日

彼岸会(ひがんえ)
極楽へのあこがれを起こす日
永代供養
寺院や霊園が遺骨を預かり永代にわたって供養すること

10月22日

十夜法要会(じゅうやほうよう)

10月22日

南無阿弥陀仏のみ名を称えて善根を積む法要。
10月から11月にかけて全国の浄土宗寺院でひろく行われる念仏会(ねんぶつえ)です。

12月31日

除夜会(じょやえ)

12月31日

過ぎた1年を振り返って感謝の気持ちをあらわす、大晦日に勤める法要を、除夜会(じょやえ)といいます。「除夜(じょや)」とは「旧年を除く夜」という意味で、12月31日の大晦日(おおみそか)の夜をいいます。

寺宝・文化財